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蒼天 [雑記]

父が死んだ。

父の病名は通称ジストと呼ばれるあまり耳にしない癌だった。
消化器官の外側にできるものなので、通常の検査ではほとんど見つかることはない。
元々やせっぽちで人相の悪い父が
少し恰幅がよくなってきたではないか、と腹をさすっていたのだが
なんのことはないそれは巨大化した癌細胞だったのだ。
元気で若ければ手術もできたが
でかく、まして全身に転移している無数のジストは肝臓にまで達し
医師は一度開いてみた腹を、手を付けず閉じる選択をした。
この判断が、僕ら家族にとってその後の父との関りを変えることになった。

悪性化した細胞のみを攻撃してくれるという薬物治療が始まった。
僕の血液の異常は父からの遺伝で
父もまたひどい貧血持ちだった。
癌細胞のみを攻撃してくれるとは言え、体にかかる負担は想像以上で
慢性の吐き気からくる食欲不振とたちくらみは、長く父を打ちのめした。
生活の質は落ちても、父は母との生活を普段通りにできる薬物治療を選択した。

だが遂に3年目。
その最後の頼みの薬が効かなくなった。
3分の1まで小さくなっていた腫瘍が、また巨大化していた。
痛みも強くなり、それでも入院を遅らせようと我慢し続ける父を
僕が時間をかけて説得し、再び入院となった。
それまでも脱水症状を起こしたりで小さな入院はあったが、
本人も家族も、これが最後の入院とはどこかで理解はしていたと思う。

直ぐに痛みの治療がされ、治まってくるともう病院で出来る治療はなにもない。
担当医師と話し合いが家族で持たれた。

目の不自由な母だけの自宅の介護は無理。
嫁いだ姉には仕事があり、僕は病人。
今の父の状態では更なる治療も手術も無理。
このままでは5日くらいと余命宣告がされ、
それならば痛みだけでもとって欲しいと願うと、緩和病棟が勧められた。

緩和病棟。

死を宣告され従容と死ぬために用意された最期の場所・・・。
と言う漠然としたイメージはあったものの、近しいもので入ったものはなく
ああ、ついにその時期にはいったんだな、くらいの気持ちだった。

案内されて感じたのは「明るさ」と「静けさ」だった。
耳障りな機械音、ばたばたと走り回るスタッフや、飛び交う声がない。
温泉マークののれんのかかった浴室、にこやかで穏やかな看護師
なにより季節のいっぱいの花がそこかしこに飾られて、良い香りが満ちていた。

緩和ケアは、名前の通り「緩和」を中心にすべてがまわる。
痛みや苦痛を伴う検査や治療は一切行われない。
父には数十分ごとに点滴を通して、かなり強めの痛み止めが流し込まれる。
それも携帯できる程度の小さなもので、
注射器がカートリッジに入っていて、薬が無くなれば注射器ごと交換できる。
いちいち針を刺されるストレスもなくなる。
患者が望み、担当医師の許可が出れば大抵のことは聞いてもらえる。
帰りたいと言えば、スタッフと家族とが一斉に動いて
家まで連れて帰った。

なにより驚いたのが、スタッフと看護師の対応能力だ。
患者の希望を最大限に優先するだけでなく、
患者の家族のケアにどれほどの時間を割いてくれただろう。
最初にこんなことまで・・と頭がさがったのは、
まったく動けなくなった父のために
ベッドごと屋上に散歩へ連れ出してくれたことだ。
まだ風の冷たい1月。
室温が亜熱帯くらいの場所で働く彼女らは半袖で
もこもこに布団にくるまれた父は
しきりに彼女らに申し訳ながっていたが
外の光と風に吹かれた父の顔は、なんと穏やかで幸せそうだったことだろう。

そんな日々が5日、一週間・・と重ねられてゆく。


子供の頃、僕は早く大人になりたかった。
大人になって、泥沼のような家族関係から早く抜け出したかった。
僕は逃げたのだ。
僕自身が緊急搬送され、余命宣告をされた時でさえ
僕は両親には伝えなかった。
年に数度は会うにしても、あえて実家を避けてきた僕は
父の癌が解ってから、ようやく自身を振り返ることを始めた。
このままでは、僕は自分の生を終えるまで
家族を理解しようとする努力をしなかったことを、どれほど後悔するだろう。

父の精神は、病への怒り、不安、絶望、せん妄からの混乱、躁状態、
抑うつを経て、諦観へとを見事に駆け抜けていった。
その期間は奇跡と言われ、2カ月半に渡った。
その時々、父は自分の様々な時を遡り、
小さな少年となり、両親と過ごした頃の関西弁を話し
大学時代なのか、英語で会話をし
夢を語り、大いに謝り、大いに笑い、大いに泣いた。
その毎日が父との冒険であり、僕らは毎日が何がおこるか楽しみだった。

なんと切なくて辛い、そして豊かな時間であったろう。
悲しむ間も泣く間も僕らは惜しんで、最後まで楽しくあろうとした。

父は5日という命の期限を、2カ月半頑張りに頑張って
最期に僕にプレゼントしてくれたのだと思う。
僕は幼少のころから父に子供としてしたかった事、しなければならなかった事を
この2カ月半をかけて行うことが出来た。

この日々を僕は毎日写真に納めた。

庭の小さなゆずを、機械浴に浮かべてもらい
それを動く手で握りしめて子供の様にはしゃいだ父。
家に帰りたいと言うのに、今日は人数の都合がつかなくて無理だよと
説得していると、すっかり駄々をこねて毛布をかぶっていた父。
しょうがないなぁ、と毛布を外すと
中で変顔をして見せていて、皆で大笑いした時。
何十年も会わなかった父の妹が会いに来てくれた時。
親しいものが生まれたばかりの赤ちゃんを連れてきたときの、
心からの笑顔。

そして、だんだん表情が失われてゆく日々。

そんな2カ月半分の600枚ほどの写真。

そんな毎日が深夜に渡り、家に戻ると泥のように眠り
日が昇ると、また病院に出かけて行って笑顔で過ごした。
薄氷を踏むような幸福感ではあったけれど
写真の父は穏やかに静かな笑顔で僕を見つめている。
これは亡くなる10日ほど前の写真だっただろうか。

僕は決して良い子供ではなかった。
事件や事故にも巻き込まれ、大きな病で何度も手術もされた。
父は会うたびに僕の体を心配していた。

聞き取りにくい父の声、筆で書かれた崩し文字
正確に読めるのは僕だけだったから、少しは役に立てたかな。
僕がいて、少しは嬉しいときもあったかな。

緩和病棟に持ち込んだ筆で、父は大きく「感謝」と書いた。
そして僕の名前を書いた。
それから姉の名前を書いて、母の名前を書いた。

2月ももう終わろうとする頃になると
呼吸が苦しいのだろう、鼻から酸素を入れてもらっても
体全体でふいごのような呼吸が始まっていた。
酸素が体中に回りきらないと、末端から壊疽が始まる。
足と手の色が変わってゆくので、僕らはずっと細い手足のマッサージを続けていた。
今日はお泊りしてずっとそばにいようか、と
父の横で家族みんなで夕食の弁当を食べた。
それを同じ病棟内の台所で姉と片づけていると、
看護師さんが珍しく慌てた様子で
母の方が大変だと呼びに来た。

急いで父の部屋に戻ると、母が裸足で病室を出ようとしている。
僕らを呼びに行こうとしたらしい。
父を見るとやせ細った手を挙げて、何か言おうとしている。
母を父の近くに連れ戻り、父の手を握った。
父はおそらくもう見えない目を見張り
声にならない声で最期に「ありがとう」と言った。

そのまま眉間が優しく開いて、すうっと穏やかな色が顔全体に広がっていった。


姉が、ああ、今体から抜けていってしまったね・・とつぶやいた。


もう後悔はないと思った。
やるべきことは総て出来たと思った。
それでも涙が溢れた。

父を呼んだ。
まだいかないでくれと、何度も呼んだ。
もっと話さなくちゃいけないことがある。
もっと笑って欲しいことがある。
僕が描いたもの、作った話、何も見せていないじゃないか。
ようやく家族らしいことが出来たばかりじゃないか。
もっと・・もっと・・。


当直だった看護師さんが担当医師を連れてきてくれて
まだ若いその医師が少し声を詰まらせながら死亡宣告をしてくれた。

僕らはその看護師さんと一緒に、父の体を丁寧に沐浴させて
父が好きだった出かける時の服を着せた。
簡単だけど、と言って看護師さんが髭をあたり整えてくれる。
看護師さんがいつもの優しい笑顔で
「最期に私にお世話させてくれてありがとうございました。」と父に語りかけてくれた。



僕はもうひとりで立たなくちゃいけないんだ。

姉が僕の手を握った。
姉はこの上なく優しく微笑みかけた。
ひとりじゃないよ、とその目が言っていた。
僕は天を仰いだ。

これから始まるんだ。
父が背負ってきたすべてのことを、今度は僕が背負ってゆくんだ。
父が繋いできたものを、今度は僕が繋いでゆかなくちゃいけないんだ。

父が身をもって見せてくれた「生ききる」ということを
今度は僕自身が考えなくちゃいけない。

私はこう生き抜いたが
さあ、お前はどう生ききってみせるんだい?

これが父からの最後の僕らへの問いかけだ。


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siamneko

最後まで読みました。
ナイスは名称のせいで押せません。

私にはどんなゴールが待っているのでしょうね。
いまはただ、前に足を運ぶだけです。
ときどき立ち止まったり、後ろに下がったりもしますけれど。
by siamneko (2018-07-10 23:04) 

takehiko

> siamneko さま
いつも優しいお心遣い、ありがとうございます。
この上もないプライベートな事で、
皆さんの目を煩わせるのはどうかと、あげるのを悩み、
半年近く前の記事になります。
先日の新盆法要を機に、この書き出しなら
不快に感じられる方は読まれまいと
自分の記録もかねて、ご心配いただいた方々に
ご報告しておこうと思いました。

まだまだ僕は父のような諦観には至りません。
バトンを手渡されて戸惑う未熟者は
足を運ぶどころか、転がってもがいて
なんとか顔だけは前を向いているところです。

by takehiko (2018-07-12 10:25) 

xephon

僕は結局父を許す事が出来なかった。
口では許すと言ったけれど、本当は許していないと思う。
正当な怒りなのか奴当たりなのか。

武彦さんがお父さんの最期に真の意味で寄り添えた事は本当に素晴らしいと思う。
僕にはそれはできなかった。

母も弟も妹も、良く父に会いに行っていたが僕は行かなかった。
しかし、会いに行っていた彼らも、本当に父に寄り添っていたとは思わない。
でもきっと僕よりはましだったろう。

こちらの書き込みを拝見して、若い頃聞いた歌に『いつの日か歳をとって みんなにさよなら言う時が来て 本当のありがとうを言える気持ちはどんなだろう いつの日か歳をとって みんなにさよなら言う時が来て 本当のごめんなさいを言える気持ちはどんなだろう』なんて歌詞があって、それを想像して泣きたくなった事があったのを思い出しました。

最後に家族を取り戻す事が出来た武彦さんご姉弟とお父さんは素晴らしいと思いました。
どうか武彦さんの隣を僕にも歩かせてくださいね。

by xephon (2018-11-12 23:15) 

takehiko

>xephonさま
かくも私的な事にコメントまでありがとうございます。
もし僕が数年前のままの僕であれば、きっと何にもできずにこの日を迎えていたものと想像します。
そして永久に何もできなかった自分を責め続けていたと思います。 
家族の在り方は、それぞれで
近しいからこそ難しいものなのかもしれません。
父の病状も特異でありましたが
限られた時間であったからこそ、僕らは目標を定められたという事もあったかも知れません。
すぐそこにもう語りかけても答えがない、探しても見つけることが出来ない別れが来ることを、毎日毎時間僕らは意識しないではいられませんでした。
それならば・・楽しい笑顔の時間で満たそう、と姉と僕は考えました。
本当は苦しかった父はもっとわがままを言って、大騒ぎをして大暴れをして
この理不尽な病を訴えたかったのかもしれません。
寄り添う、というのは本当に難しい事です。
でも父は理性的で恥ずかしくなく死にたいといつも言っておりました。どんな状態で死んでも、最後は「ありがとう」と言いたかったんだと思ってくれという遺書も、のちにでてきました。

遺されたものの問題はまだこの先
生きては行かねばならない事です。
どうぞこれからも沢山お話を伺わせてください。
迷い悩み立ちつくしながらも、ご一緒に善き道を歩いてゆきたいです。
こちらこそよろしくお願いいたします。
by takehiko (2018-11-13 02:11) 

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